鬱々と...

 学友たちは早々に就職活動を開始していた。既に内定をもらってモラトリアムを謳歌している者すらいる。まだ大学三年の十月だというのに。大手新聞社の各紙社会面には「前倒しされる就活時期 踊らされる大学生」といった見出しのコラムが掲載されることも少なくないようだ。どうせ胡散臭い評論家か、どこかの大学教授が書いているのだろうと当たりをつけて、リビングの机上にある朝日新聞を開いてみると、就活評論家を自称する中年男の顔写真が、コラムの片隅に載っていた。いかにも就活に失敗しそうな、冴えない表情をしている。そもそもこの男、都内の中堅私大を卒業した後、一般企業へは入社せずにフリーライターとして活動を始め、就活評論家という馬鹿げた肩書きを名乗るようになったようである。きっと僕の推測した通り、就活をしてみたものの箸にも棒にもかからず辿り着いた先がフリーライター、そして就活評論家だったのだろう。『就活必勝マニュアル』と題された彼の著書はたぶん、彼自身を反面教師として書かれた本に違いあるまい。「私みたいにならなければ、きっとあなたも就活強者!」と自分から告白しているようなものだ。本当に馬鹿げている。ただ、彼は彼なりに内定を貰えず苦しむ就活弱者たちに過去の自分の姿を重ね、彼らが箸か棒かに引っかかるよう努めている。その点では彼の営みは生産的なものだと言えよう。さらに言えば、彼はその印税や原稿料でもってどうにか生計を立てている。立派な人じゃないか、中年就活評論家よ。
 だがなんにせよ、それは僕には関係のないことだ。そもそも僕は他人のことをとやかく言える立場ではない。周囲の学友たちが、やれESだ、やれインターンシップだと忙しなく日々を送っているというのに、今日も惰眠を貪り昼過ぎに起床した。リビングのソファで横になり、百獣の王も顔負けの大きなあくびをする。リビング・ダイニング・キッチンの全てが一つところにまとめられた二十畳ほどの空間に広がる空気をみんな吸い込んでしまわんばかりの大きなあくびだった。十分に睡眠をとったと思っていたが、まだ眠い。寝ても寝ても、依然として眠い。その眠気が、僕の不規則な生活習慣に起因するものなのか、それとも先天的に普通の人以上に多くの睡眠を要するという僕の体質ゆえなのかはよくわからない。どちらであろうと僕の気にするところではない。なんにせよ眠いのだ。
 僕はまたひとつ大きなあくびをして、朝食とも昼食ともいえる食事をとった。急いで身支度をして家を出れば四時限目の研究会には間に合いそうだったが、家を出るのも億劫だったので諦めた。行かなかったからといって世界が終わるわけでもないし、研究会で題材となっている貿易関係論には、これっぽっちも興味がなかった。今後の僕の将来に有益なものをもたらしてくれるとも思えなかった。研究会での研究題材については、就活でしばしば質問されるとのことだが、面接官の前で雄弁に貿易関係論を語る自分の姿を想像すると虫唾が走った。そもそも面接官の前で雄弁に語る姿など上手く想像できなかったし、スーツを着てネクタイを締めている姿すら、ひどくぼんやりとしていた。
 「就活、か。」僕はソファで歯を磨きながら声に出してみた。声に出せば、就活が現実味をもって感じられるのではないかと期待してのことだった。だが、就活は未だに茫漠としており、むしろ声を出す前よりもいっそうとりとめのないものに感じられた。「就活!」、「シュ・ウ・カ・ツ!」僕は大きな声で言ってみたり、一言ずつ区切りながら言ってみたりした。就活にたいする意欲など微塵もなかったが、就活とはなんたるかを知らんとする好奇心がそうさせた。だが、就活は正体をあらわすどころか僕の声に驚いて、どうやら雲散霧消してしまったようだ。僕が就活を拒んでいるのと同様。就活もまた僕を拒んでいるみたいだった。
 僕はベランダに出て煙草を吸った。両親は僕が家で煙草を吸うことを歓迎しなかったが、僕はいつも両親の不在をねらってこっそりとベランダで煙草を呑んだ。ベランダでなら誰にも害を与えないし、においもさほど気になりはしない。僕は両親が望むような理想的な息子ではないかもしれないけれど、迷惑にはならないよう努めているのも確かだ。マールボロのゴールドをふかしながら、再び就活について考える。就活が自分から姿をあらわしてくれぬのなら、こちらから正体をつきとめにいこうという魂胆だ。就活との徹底抗戦も辞さないつもりでいる。だが、就活がどんなものであるのかさっぱりわからない以上、まずは就活をどのように紐解いていくべきかを考える必要があった。就活について考えることについて考えるのだ。そこで、僕は大学二年の夏休みに読んだデカルトの『方法序説』に書かれていた手法をとることにした。まず明らかに正しいと認められるもの以外は正しいとせず(いわゆる方法的懐疑だ)、問題を可能な限り小さく分け、それらを簡単なものから片付けていく。そして最後に見落としがないことを確認する。うろ覚えではあったが、たしかこのような四つの手順を踏むのだと記憶している。まあ間違っていたとしてもさほど問題にはならないだろう。誰かが評価するわけでもないし、僕はひとえに僕自身のために就活について考えたいのだ。
 煙草の火をしっかりと消し、僕は部屋に入った。本棚とベッド、そして机と椅子だけが置かれた六畳ほどの簡素な部屋だが、壁紙だけには黄色や黄緑といった暖色がやたらと用いられていた。暖色には気分を高揚させる効果があるというが、その壁紙もまた例外ではなく、ずけずけと僕の目に飛び込んできて僕の気分を高揚させようとしてくる。僕にはこの傲慢な壁紙が本当に目障りだった。この部屋にいると僕が好むと好まざるとに関わらず、気分を高めることが強制されているような気持になった。まるで頭が空っぽな学生の宴会のようだ。だがそんな壁紙も、今日ばかりは僕に利する労に働いてくれるような気がした。なにせ僕はこれから就活という難敵に挑んでいかなくてはならないのだ。気分を高揚させ、アドレナリン分泌の一助となるのであれば、むしろ好都合だ。僕は部屋の隅に置かれた机に向かって座った。最後にここに座ったのはいつのことだったか思い出そうとしてみたが思い出せなかった。ただ机上に無造作に置かれているプリントには一か月以上前の日付が記されている。貿易関係論のプリントで、約半世紀前の日米貿易摩擦について図を交えて詳述されていた。一ドルが三六〇円の価値を持っていた時代のことだ。この講義を受けていた時の僕はどうやら教授の話に熱心に耳を傾けていたようで、小さな文字で様々なメモが余白に記されていた。だが今になって読んでみても要点はほとんど掴めなかった。講義なんてそんなものだ。当時の僕が熱心に講義を聴き、重要と思われる点をメモし、いくばくかの満足感や達成感を得ていたのかと思うと恥ずかしく、哀れにさえ思えた。無駄なことをして、なにかをやり遂げたかのような気持ちになっている哀れな若者。どこかで読んだ小説の主人公のようだ。僕は虚しさに打ちひしがれて、一気にやる気がなくなった。雑然と広がる机上のプリント類を片付けるだけの気力すらなかった。完全に出端をくじかれた形だ。もうどうにでもなってしまえばいいと思った。
 僕はベッドに横になった。ベッドは柔らかく僕を迎え、慰撫してくれているようだった。このまま安らかに眠りにつき金輪際、目を開くことがなくなれば、どれだけ幸せだろう。大きく溜め息をついたところで、仰向けになって目を開けると暖色の壁紙が目に入った。僕は心底うんざりした。室内のどこを見ようとも暖色からは逃れられない。暖色の悪魔が僕を襲ってくる。僕は逃げ出したかったが、心身があまりに疲弊していて体を動かすことなど到底できないように思われた。もうさっさと死んでしまいたかった。そうして僕は目を閉じた。
 目を閉じて落ち着いたところで、死にたいと考えている自分のことに思いあたった。また死にたいと思っているな、と。いったい僕は生涯で何度死にたいと思っているのだろう。僕の脳内に死にたいカウンターが搭載されているのだとしたら、そこでカウントされている数がいったいいくつなのか見てみたいものだ。僕は事あるごとに死にたいと思ってしまう。傍目には取るに足らないことであっても、僕にとっては世界の終わりにも匹敵するような、絶望的なことに思えた。英語の慣用表現に It's not the end of the world. というものがあるそうだが、本当に世界の終わりが訪れたかのような絶望感に打ちひしがれている僕には、なんの気休めにもならなかった。 It's not the end of the world. などと呑気に言う人間を、僕は嫌悪した。奴らには僕の絶望などわかりはしない。僕はまた溜め息をついた。ベッドから体を起こすことができない。ひとたび絶望的な気分に陥ると、再び動き出せるようになるまでに時間を要する。絶望に慣れなはい。まったく厄介極まりない。「はぁ。」僕は三度溜め息をついた。

母校へ行く

 高校の卒業証明書をもらうため、母校へ行った。我が母校は家からほど遠からぬ場所にあるが、わざわざ行く用事もなかったので訪問するのは実に数年ぶりだった。校舎は僕が通っていた頃よりもいくぶん綺麗になり、ご親切に案内表示板もでき、生徒たちの通学自転車も整然と停められていた。まさに優等生たちが通う進学校といった感じである。

 なにやら中学生と思しき少年少女たちの姿がちらほらと見られたが、今日はどうやら受験生たちの願書提出日だったようだ。どう見ても高校生っぽくない僕とすれ違うと、「こんにちは」と挨拶をしてくる者もいた。なるほど、僕を学校の関係者だと思ったのだろう、心証を良くしておかねばならないのである。競争はすでに始まっているのだ。僕も、にこやかにとは言えないが挨拶を返した。

 こんな場所での心証が良かろうが悪かろうが合否には関係ないのにな。と、斜に構えた態度をとれるのは僕が22歳だからだろう。そんな僕も彼らと同じ年齢の時には、心証を良くしよう、ぼろが出ないようにしようと必死だった。白い靴に白いスクールソックスを履き、学ランの襟のホックを締め、襟元につけた校章が傾いていないか確かめた。髪型はスポーツ刈りだった。

 

◇◇◇

 

 事務室の窓口に着き、証明書交付願を手に取る。卒業した年度を書く欄に生年月日を書いてしまい、二重線を引いて訂正。「全日制」と書くべきところに「普通科」と書いてしまい訂正。3年時の担当教員の名前はうろ覚えだった。知り合いの教員と出くわさぬように殴り書きで所定欄を埋め、発行手数料の400円とともに事務員に手渡した。証明書は月曜日の13時以降に受け取りが可能になるという。軽く会釈をして、そそくさとその場をあとにした。

 外は日差しは暖かいが、吹きすさぶ風が冷たい。思わずくしゃみをしてしまい、鼻を掻く。その手は煙草くさかった。駐輪場に粗雑に停めた僕の自転車は、風にあおられたせいか倒れていた。

黒ラーメンに染められて

 我が青春と共にあったところのラーメン屋、富山ラーメン熊田が移転するとの報を受け、学友と連れ立って赴いた。店に入ると、裏方の座敷から「いらっしゃいませ~」という聞き慣れたハイトンーン・ヴォイスが響く。香ばしいスープの匂いを愉しみながら券売機の前に立った。硬貨投入口から500円玉を入れても決してそれを呑み込もうとはせず、絶えず吐き出し続けた旧型券売機の姿はもはやそこには見られない。500円玉を悠々と呑み下す新型券売機が聳え立っていた。

 「学割ラーメン」の文字の下には手書きで”500円”と書かれたスティッカーが貼られている。ラーメンに加え、サーヴィスで提供される混ぜご飯を400円で食すことができた時代が思い出される。私はあの味がない混ぜご飯が好きだったのだが、増税のあおりを受け、混ぜご飯は白米に取って代わられた。といっても、私は熊田で白米を食べる機会には恵まれなかった。白米の無料提供は、ごく短い期間に限られていたからだ。

 白米の提供が終わった矢先、学割ラーメンの価格は450円に、そして終いには500円まで跳ね上がった。旧き良き時代が走馬灯のように私の記憶を駆け巡り、郷愁の念にも似た思いに襲われながら、「学割ラーメン500円」のボタンを押す。食券が吐き出され、くまだまさし似の店主に渡した。ハイトーン・ヴォイスと温厚そうな相貌に似合わず、飲食物の持ち込みは断固として認めぬ強い意志を持った、件の店長である。その強い意志でもって、道路拡張工事に反対することはできなかったのだろうか。店舗を移した先で、この高度資本主義社会で生き長らえることはできるのだろうか。疑問は絶えない。

 だがそんな私の暗い疑念を、さらなる暗さで黒々と覆い、ゴクリと呑み下してくれたのは、店主が運んできた例の黒ラーメンだったのだ。黒脂を吸い込んで黒くなったチアシウ、黒脂に染められ、もはや自分がどのような色彩であったかを忘れてしまった長ネギ、黒脂に染められまいと、その透明さを保つために激しい闘争を繰り広げるもやし、黒脂と美しいコントラストを成すラーメン、そしてそれら全てを子宮の羊水のように温かく包み込むスープ・・・これにも当然、黒脂が不気味に漂っている。追い打ちをかけるように鼻孔を刺激し、食欲をそそる黒脂の香り。その艶かしさに私は心を打たれた。

 これを食してしまっていいのだろうか。いや、食さぬわけにはいかない。まずはスープからだ。真っ黒になってしまったレンゲを口元に運び、ダイソン社も顔を青冷めるほどの吸引力で一気に吸い込む。私の食道が真っ黒に染められていくのをひしひしと感じる。あまりの美味さに、レンゲの動きを止めることができない。私の左手は、いまや椀と口元とを止め処なく往き来する出来の悪い機械になってしまったかのようである。さあ、富山ラーメンよ、私を真っ黒に染めてくれ。もはや純潔は捨てたのだ。

高野山町石道を歩く-その2

 森林部を抜けると、車通りのおおい国道に行き当たった。そのすぐそばにある、やきもちが名物の茶屋は、ゴール地点である高野山の総門・大門までの6km程の道程へ足を踏み入れる前の最後の休憩場所となっていた。ついに食べ物を口にできる。道中には食事処も出店もなかったために、飴玉3粒でどうにか空腹を耐え忍んできたのは、まさにここでやきもちを食べるためだったのかもしれない。ゴージローは歓喜し、いそいそと道路を横断して茶屋の扉に手をかけようとした。しかし、扉にはなんと「準備中」の三文字。扉の把手に手をかけようとしていたゴージローの右手は、わずか数十センチ先に目標の把手をとらえていながら、だらりと地面と垂直に垂れる羽目になった。

 これほどまでに運がないのは、むしろ誇るべきことかもしれない。ゴージローは、だったらなにも食べずに山頂まで登りきってやろう、と固く心に決め、近くの自動販売機で水を買い、しばし休憩してから出発することにした。付言しておくと、その自動販売機には飲料水に加え、ご親切にもカロリーメイトなどの栄養調整食品も陳列されていた。そんなものには目もくれず、というわけにはいかなかったゴージローだが、頂上に向け、その場を後にした。

 空腹のまま再び歩き始めたゴージローの目の前には、急な上り坂が待ち受けていた。既に15km以上歩き、足腰に疲労を抱えた状態でこの坂を登っていくのは非常に骨が折れた。ゴージローは考えることをやめ、ずんずんと前へ進む。途中、弘法大師が袈裟を掛けたとされる岩や、鏡石と呼ばれる表面がすべすべの石を見かけたりもしたが、疲労のあまりもはやなんの感慨もなかった。周囲の景色を楽しむ余裕もなく、むしろ樹海に閉じ込められてしまったかのように感じたりもしていた。しかしそれでも、足を止めてしまえば再び歩くことすらかなわなくなりそうな気がして、必死に歩いた。ここは参拝道であるだけでなく、修行道でもあることが身をもって感じられたと言えよう。

 茶屋での休憩から約2時間、他の参拝客とすれ違うこともほとんどないまま歩き続け、ようやく大門にたどり着いた。ゴージローは目頭が熱くなるのを感じたが、それが目の前にどっしりと聳え立つ大門の壮大さに心動かされてのことなのか、20kmを歩き切ったことに満足してのことなのかはわからなかった。(おそらく後者であろう。)山頂付近の空気は澄み、葉は秋らしく紅く染まっていた。

 ゴージローは夕日が沈みゆくのを横目に山内を散策。ふと目に飛び込んできた和菓子屋に入り、肉を喰らう猛獣の如く饅頭を喰らった。実に9時間ぶりの食事である。餡子の甘みが口の中に広がるのを感じながら、金剛峯寺へ参拝。旅の目的を一通り果たした形だ。

 下調べをろくにせず、熊野古道を歩くはずが高野山道を歩き、180町という過酷な参拝道になめてかかり、疲労困憊になった。さらには運の悪さも相俟って、9時間もの空腹を強いられたが、饅頭だけは美味しかった。阿呆ここに極まれり。

高野山町石道を歩く-その1

 所用で京都へ赴いたついでに、ゴージローは高野山町石道を歩いた。この道は、金剛峯寺へ向かう道として真言宗の祖・空海が切り開いた参拝道。鎌倉時代には、北条氏に仕えていた安達泰盛らの尽力で整備され、現在でもその姿は大きく変わってはいないという。この参拝道や熊野古道などを合わせて、「紀伊山地霊場と参拝道」として世界遺産にも登録されている。九度山駅からほど近い慈尊院から始まり、金剛峯寺へと連なる約20kmにも及ぶ道の沿道には、1町(=約109m)毎に180の町石が建てられており、参拝者はそれら一つ一つの町石に礼拝をしながら頂上を目指す。

 受験科目として日本史を選択していたゴージローであったが、「高野山」と聞いても「金剛峯寺があるところ」、「真言宗の祖・空海にまつわる場所」といった程度の知識しか持ち合わせていなかった。この参拝道がいかに神聖なものであるかを知らず、どのような歴史的価値があるかも知らぬままに、ただハイキングをしたい、といういかにも軽薄な気持ちで赴くことにしたのである。恥を忍んで言ってしまうが、そもそもゴージローは、愚かにも高野山町石道すなわち熊野古道の一つであると思い込んでいた。いま自分が歩いているのは熊野古道なのだ、と信じて歩みを進めていたその場所が、実のところ熊野古道とは別物であると気付いたのは、90町石、つまり参拝道の中間地点を過ぎて休憩をしていた時のいいようことであった。いつもであれば自分の阿呆さを憂えて絶望的な気分になっていたところであるが、ゴージローを取り巻く木々が発する(とされる)マイナスイオンの手助けもあり「ま、こんなこともあるさ。」と、らしくもなく前向きに受け止めることにした。

 はじめこそ、標高が上がっていくにつれて移り変わっていく景色や、町一体を見下ろす展望台からの眺望を愉しみながら歩いたが、森林部に入ってしまうと、そこにあるのは一本道、そして周りに聳え立つ木、到着地点までの距離を伝える石造の卒塔婆だけ。伴侶がいなかったこと、想定を遥かに超える道中の過酷さ、飴玉3粒では防ぐことができない空腹感、さらには睡眠不足が拍車をかけ、ゴージローは言いようのない虚無感に襲われた。「この神聖な道を歩いて心を浄化しよう。」という当初の目的は失われ、ただひたすらに前へ、前へと進む。黙々とうつむき加減であるいていたゴージローであったが、なにやら動物の鳴き声のような、木をつつくような音が聞こえてくる。ふと見上げて音のする方を探してみると、そこにいたのは一羽のキツツキであった。その名が示す通り、一心不乱に嘴で木をつついている。この広大な森の中に一羽だけで暮らしているのだろうか、あんなに木をつついて頭が痛くならないのだろうか、などと考えながら、別れを告げて先へ向かった。